エピローグ

「アテナは・・・無事遠くまで・・・」
薄れいく意識の中で、赤子のことだけは追いかけていた。
もう意識なんてなかったのかもしれない。
託した老人は、信用できると、はっきりと思えていたことか不思議だった。
これも運命?定められたレールの上を歩かされるだけの、
神々のマリオネットなんてうんざりだった男は心で笑っていたのかもしれない。
ふと浮かんだ幼い弟の顔が辛かった。
かけてやる言葉ももうないなぁと自分に生き写しのような弟。
「アイオリア・・・・」
大切な赤子が安全圏に去ったと感じられて、緊張の糸が切れたのかそのまま意識を失ってしまう。
星の瞬きだけが冷えていく体を癒している。
けして長くは持たないのに・・・

彼が目覚めたのは、舞い降りるように現れた少女の吐息と体温を感じたから。
「エリス・・・」
ゆっくりと重い瞼をあけようとする。少女はじっと見下ろしていたが、
想いの堰が切れたように傷だらけのアイオロスを抱きかかえた。
動かす際に激痛にうめいたがおかまいなしに、小さな膨らみかけた胸に抱く。
血や泥で汚れることに躊躇もない。
「アイオロス、無茶なことを・・・いや、何故・・・」
「可愛い天使かと思ったよ」
痛みを感じにくくなっているのは、感覚がもうないから・・・・

              *

ぐっ・・・大量出血で瀕死の状態なのに、抱きしめる腕の力が強くなる。
少女は血の匂いの中で、はっと目を見開けば、
もう色を失いかけた、かつては大空のようなブルーの彼の瞳が微笑んでいるようだ。
「な、何を・・・何故、そんな力が・・・・」
実際には、腕に力はほとんどないのだろう。
今生、最強を謳われた黄金聖闘士の小宇宙が気流を生んでいても、
それこそ存在する世界の異なる絶大な存在の少女には、意に介するものではないはずだった。
むしろ、彼女の方が無意識にそこに留まることを望んでいたからかもしれない。
「君と・・離れた・・くないか・・・らかな・・・」
そう言って笑ったような気がしたが、表情は何もかわらない。血がこびりついてひび割れている。
「・・・アイオロス・・・・」
<<君が誰であろうとも、そう思っているんだよ。サガにとられたくないって気持ちもあるかな?>>
もう、言葉にはできない。唇が動かないから。
「お前が死にかけているのは、私の望みのためなのだぞ」
心の小宇宙でのテレパシーというより、意識が交わって直接伝わってきている。
<<ははは、黄金聖闘士として、こうなったからには、一時でも災厄を遠ざけたい想いもあるよ>>
「何をする気だ?お前まさか・・・・くっ体が離れない・・・・」
<<最後を君が看取ってくれるなら、嬉しいね。女神様の胸で逝けるんだからさ>>
「たとえ、どんなことをしても私は消すことはできないのだぞ」
<<無駄死にだとは思わないよ、もう尽きてる命だ。アテナが聖域に凱旋して諸悪を浄化されるまでは、
その時間だけ、遠ざけたいだけだよ。神様は、この世界そのもの。滅ぼせるはずがないからね。
一人で死ぬのは寂しいからそばに居て欲しいのさ>>
「お前はそこまで分かっていて・・・」
<<残念ながら、争いの女神の寵愛を受けてるからね。今この瞬間にも。アテナの聖闘士失格かな?>>
少女は目を見開いて返す言葉がない。
争いの女神としての超越した力など使わずとも、幼い少女として腕を振り払えるはずなのに
やっぱりそうできない自分がいる。そうハッキリと分かる。
命のともしびは消えかけているが、宿敵の最強の戦士にして最高司令官を拝命した男と抱き合っている。
神々の時代に現れて以来、初めての感覚だった。不快ではない。ただ不思議だ。
ゆったりした海に揺れている様。

空気の流れがかすかに残った星の光を集めて、天の川をまとっているようにきらめいていた。
朝を迎える前の、一番闇の濃い時間。
月も消えている。

夜明けが近い。
東の空がうっすらと紫色に染まってきている。
冷たい風が乾いた血がこびりついた髪を小さく震わせる。
「アイオロスーっ!」
<<さらばだ、我が弟アイオリア。アテナよ、どうかご無事で。さらば友よ>>
星をたたえた風が太陽のような光を一気に集中させて・・・・

その瞬間、遠く聖域からも、アテネ市外からも、夜明けの光の迸りと見まごう
光の渦がはっきりと見えたと言う。
淡い陰を引き連れたままで、全てを背負って。
巨大な星が堕ちた。

*

日が昇る。
何も変わらず神話の時代から同じように総てのものに光と影を生み出す熱。
ギリシアの乾いた風の中、強烈な日差しが、全ての偽りをもかき消すように降り注ぐ。
サガは、立ち尽くしていた。
「サガ、聖域を頼む」
声が残っていたのか?ふと青空を見上げても誰もいない。
風のささやき?
自らの罪をなすり付けて死を与えた友と、愛した少女のかげろうだけがゆらめいて消えて
最終聖戦時代の幕が切って落とされた。

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星輝宮

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